言の葉通信

2022-07-23 17:29:00

羊と鋼の森

 森の匂いがした。

 この冒頭の一文で、私の目の前にも大きな森と、瑞々しい森の匂いが広がった。

 言葉の力とは凄いもので、ときにはリアルなほどに五感まで刺激されることがある。「羊と鋼の森」の世界では、私はずっと嗅覚を刺激されていたように思う。それは、晴れた日の森の匂い、雨の匂い、緑を吹き抜ける風の匂いだったりした。

 

 初めて手に取った宮下さんの著書は「神さまたちの遊ぶ庭」だった。その次に「緑の庭で寝ころんで」。いずれもエッセイで、そこには、北海道のど真ん中、トムラウシでの一年間の生活も描かれていた。二冊とも、私の目の前には緑が広がり、十勝の四季折々を感じさせた。加えて、「緑の庭で寝ころんで」には、「羊と鋼の森」の本屋大賞受賞エピソードの数々が盛り込まれていた。だから、言っていれば、私は、宮下さん本人に勧められて「羊と鋼の森」を読んだことになる。

 

 舞台は北海道。ピアノの調律師を目指す青年が、真摯に仕事と向き合う物語だ。ピアノの音色や調律を言葉で紡ぎ出すのはとても大変な作業だったに違いないのだが、宮下さんは実に見事な筆致で表現している。

 音楽的な部分での奥深さはもちろんだが、人物の描き方も繊細だと感じた。主人公の青年・外村は一見、イマドキの言い方をすれば草食系男子。けれど、仕事へ探究心には感服させられるほどで、心に、静かに情熱を沸き立たせるマグマを秘めているような青年だった。調律を学ぶためなら遠慮無く先輩に質問し、仕事にも同行する。謙虚な姿勢ながら、学ぼうとする意欲は隠しきれない。なんとも理想的な職場の後輩である。先輩たちだって、こんな後輩なら大事に育てたいと思うだろう。

 そうして、環境に、人に、森に育てられながら、外村は理想のピアノの音に近づいていく。

  

 この空気感をどうやって映像にするのだろう…。去る2017年、作品の映画化を知ったとき、最初に不安がよぎったのを覚えている。そうして半ば恐る恐る映画を観たのだったが、良い意味で裏切られた。作品に流れる雰囲気が、しっかり再現されていた。外村役の人気俳優もイメージにぴったりだった。小説を読んで、映画を鑑賞し、再び小説を読み返し…… もう一度、あの静かな感動を味わいたくて、今回は3度目の読了である。そして思う。映画、また観たいな…と。ということは、私はきっと、しばらくの間は「羊と鋼の森」のループに陥るに違いない。

 

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